呪縛を解く「友達」という存在
TVアニメ『これ描いて死ね』第10話「この世の90%はカスである〜ママより強くなるには『友達』が必要である」。原作でも屈指の熱量を誇る名エピソードが、ついに映像化された。
サブタイトルに掲げられたシオドア・スタージョンの警句は、劇中において単なる知的な引用ではない。それは、他人の感情の機微が分からず無自覚に人を傷つけてしまう石龍光に対し、母であるへびつか先生が授けた「防壁」の呪縛だった。だが同時にそれは、彼女が宿す類まれな創作の才という鋭利な爪牙を、外界の無理解や雑音から折られたり、鈍らせないよう大切に保護するための「鞘(さや)」でもあったのだ。「世界の大半はカスなのだから、傷つけるのも孤独になるのもやむを得ない。傷つけ合わないよう距離を置けばいい」――そうやって母が厳重に閉ざし、孤高の才能を守るために誂えた鞘のなかに、無防備に飛び込んできたのが、赤福幸という少女だった。
群像劇を支える「受容型アンカー」の系譜
名作と呼ばれる群像劇には、時として「突出したスペックを持つわけではないが、癖の強い天才たちを現実世界に繋ぎ止めるアンカー(錨)」が存在する。
古くは『マリア様がみてる』の福沢祐巳がそうだった。規格外のエースたちが集うリリアン女学園の生徒会において、祐巳の持つ「相手の鎧を剥ぎ取り、剥き出しの人間を丸ごと受け止める包容力」は、集団の崩壊を防ぐ絶対的な接着剤として機能していた。あるいは『SLAM DUNK』の木暮公延。身体能力に恵まれたエゴイストたちが衝突し合う湘北バスケ部で、理不尽な暴力や侮辱に晒されながらも相手の弱さを理解し、決して憎まなかったあの「メガネ君」の精神的器の深さは、チームが空中分解しないための最後の防波堤だった。
しかし、そうした偉大な先人たちと比較したとき、赤福幸という造形の「特異さ」はいっそう際立つ。
「聖女性」に逃げない、底抜けの緩さとタフネス
祐巳や木暮、あるいは『フルーツバスケット』の本田透、そして『BLEACH』において「心」を理解できない異形の怪物ウルキオラすら拒絶せず、その深淵を慈悲で包み込んだ井上織姫のように、他者の深い傷や孤独に触れるキャラクターは、往々にして「真面目で誠実な良心」や、どこか神秘的な「聖人性」を帯びていく。他人のトラウマに踏み込むドラマを成立させるためには、キャラクターにそれ相応の「重み」や「純真」を持たせるのが作劇の定石だからだ。
ところが、赤福幸はその定石を軽やかに飛び越えていく。 彼女のまとう空気は、どこまでもカラッとした底抜けの明るさと、等身大の女子高生らしい「適度な緩さ(テキトーさ)」だ。相手の孤独を前にしても、決して説教臭くならず、聖人ぶることもない。
普通、こうした緩いムードメーカーを他人のトラウマに不用意に踏み込ませれば、ただの「無神経な人間」として破綻してしまう危険を孕んでいる。だが赤福は、決して痛みに鈍感なわけではない。光の悪意なき無邪気な言葉にちゃんと傷つき、ショックを受けながらも、それを「ま、いっか!」と自らの巨大なキャパシティの中でサラリと受け流してしまうのだ。
「相手の爪で血を流しながらも、その爪の奥にある根っこの純粋さを信じて手を離さない」。この陽性の精神的タフネスを、何気ない日常のギャルの軽快さのまま両立させている点において、赤福のキャラクター設計は奇跡的なバランスの上に成り立っている。
母の論理をも無力化する「底知れない器」という畏怖
この赤福の器の広さは、へびつか先生との会食シーンにおいて決定的な形で証明される。
あの場で印象的だったのは、他人に無関心だったはずの光が、毒親的で手厳しい母親の爪牙によって「赤福が傷つけられてしまうのではないか」と本気で心配し、庇おうとしていた点だ。光の心に、すでに赤福をかけがえのない他者として案じる情が芽生えている。
そして赤福は、そんな光の心配をよそに、へびつか先生の放つ威圧感や冷徹な言動すらも、持ち前の底抜けの明るさと適度な緩さで平然と受け流してしまう。「90%のカス」と切り捨ててきたはずの他者のなかに、毒を一切受け付けず、傷つくことすら笑って無力化してしまう怪物がいた。自分の論理がまるで通用しない赤福の底知れない人間的キャパシティに直面したへびつか先生が覚えたであろう動揺と畏怖は、赤福幸という存在の規格外さを雄弁に物語っている。
言葉を超えて「漫画」で魂を結ぶカタルシス
対人コミュニケーションにおいては致命的なまでに不器用な光が、自らの魂を唯一100%出力できた手段、それが「漫画を描くこと」だった。そして赤福は、言葉のやり取りではすれ違った光の真意を、彼女の描いた漫画という窓を通して、完璧に、一滴のこぼれ落ちもなく受け止めてみせた。
「言葉では傷つけられても、作品を通して相手の魂を理解し、悪意がないことを悟って笑顔で許す」。 創作をテーマにした作品でありながら、創る側の苦悩だけに特権を与えず、「ただ純粋に作品を愛し、受け止める側(読む者)」が持つ計り知れない人間的器をここまで力強く肯定した場面が、かつてあっただろうか。
「90%はカス」と冷笑する世界から、泥臭く手を伸ばして手に入れた、かけがえのない「残りの10%」。 単なるお調子者の賑やかし枠だと思っていた少女が、母親の強固な呪縛すら軽々と解き放ち、孤独な天才を救済していたというこの鮮やかなカタルシスは、人間心理を極限まで見つめ続けてきたとよ田みのるという作家の、ひとつの到達点と言っていいだろう。